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2020年12月22日 更新
有形文化財
有形文化財

建造物

慈光寺観音堂

町指定文化財 慈光寺観音堂

坂東三十三観音礼場第九番札所の観音堂です。
現在の堂は文化七年(1810)頃の再興によりものです。
内部の構造は、本尊を安置する内陣と
土足であがれる礼拝の間である外陣に分けられ
奥行きの長い建物となっています。
外陣欄間には二十八部衆の彫刻が見られ、
天井近くには、「夜荒らしの名馬」が繋がれています。
毎年4月の第2日曜日と4月17日には
本尊十一面千手千眼観世音菩薩の「お開帳」が行われ、
善男善女の参詣者により賑わいを見せます。

絵画

初代明覚小学校長小室勤氏の肖像画

町指定文化財 肖像画

 東京国立文化財研究所(現在の東京文化財研究所)にて、サインはないが80%黒田清輝の作品と考えられるとされ、「伝黒田清輝筆」とすることが望ましいと鑑定されました。初代明覚小学校長小室勤氏の肖像画です。

 

紙本着色墨書役行者絵巻

町指定文化財 紙本着色墨書役行者絵巻

 かつて外秩父修験道の副先達をつとめた武藤家(旧慈眼坊)に伝わったもので、修験道の開祖役行者の物語を絵図と墨書で表した絵巻です。江戸時代初期の制作と言われ、紙高32㎝、全長12mに及ぶ長編で流麗な書と極彩色の7面の絵図からなります。

彫刻

木造十一面観音菩薩立像

町指定文化財
木造十一面観音菩薩立像

 坂東三十三所観音霊場九番札所慈光寺観音堂内に納められています。像高179.3㎝、材ははっきりとしませんが針葉樹材による一木造りです。様式から室町時代の制作と思われ、畠山重忠ゆかりの像とも伝えられています。

木造観音菩薩坐像と木造勢至菩薩坐像

▲ 町指定文化財           ▲ 町指定文化財
   木造観音菩薩坐像            木造勢至菩薩坐像

 像高50㎝、ヒノキ材、一木造、彫眼、漆箔で基本的な構造や作風、大きさが共通しており本来一具の三尊像で、阿弥陀如来像の両脇侍として鎌倉時代初頭頃に作成されたものです。越生町にも同様の作風を伝える大日如来像がありこの周辺に根付いた在地仏師の作といわれています。

日吉山王七社版木

町指定文化財 日吉山王七社版木

 寺を守護する神々を表した版木で、室町時代のものと言われています。その配置は、山王曼荼羅(さんのうまんだら)とよばれるも形式を簡略化したものです。

銅造阿弥陀如来立像

町指定文化財 銅造阿弥陀如来立像

 五明円通寺に伝わる本尊仏です。本来は善光寺式三尊の中尊であり両脇侍を従えていたものと考えられます。鋳造による銅造で、高さは61㎝で螺(ら)髪(はつ)は無文です。右手は胸の前にあげ五本の指を伸ばして「施無畏(せむい)印※」、左手は人差し指と中指だけ立てて、他の指は握る「刀印(とういん)」を結んでいます。全体に素朴でおおらかな作風です。新編武蔵風土記稿では「寺僧ノ話ニ此像ハ、下青鳥村ノ城主、高瀬弾正高広ト云ヒシ人ノ寄付ナリト云フ」と記され、伝来の由来を伝えています。像の背中には「寛正四年癸未四月十五日作之 大旦那藤原朝臣經宣(カ カ) 大工實吉」の陽鋳銘※があり、ほほ確実な制作時期(1463年)などが分かります。
※印 仏像の手の形や組み方のことで印相とも呼ばれます。仏の御利益や意志などを象徴的に表し、仏像を見分けるときの重要なポイントにもなります。
※陽鋳銘 鋳造時に鋳型に窪みをつけて凸型に表現された銘文で鋳造時と一体の銘文

木造毘沙門天頭部

町指定文化財 木造毘沙門天頭部

 龍福寺阿弥陀堂の脇侍である江戸時代の毘沙門天像の修復作業中に胎内より発見されました。現存高35㎝、一木造り、彫眼により作成され、大きさからほぼ等身大の木造であったと考えられます。虫害のため破損が進行していますが、様式から平安時代後期の11世紀前後のものと思われます。胎内へ納入した経緯を記した木札が同時に発見されています。

木造観音菩薩坐像

町指定文化財
木造観音菩薩坐像

 多武峯神社境内にかつて所在した観音堂の本尊です。像高37.2㎝、ヒノキ材を一木から彫り上げ彩色を行わず木肌を活かした素地仕上げとしています。全体に素朴な作風ですが、様式から室町時代の制作と考えられ貴重な作例です。

木造天狗面

町指定文化財 木造天狗面

 面の大きさは、縦24.1㎝、横16.9㎝で、キリ材により彫られ鼻は別材をついでいます。彩色は剥落し、頭髪は失われていますが、面部を朱に塗り、鼻を高く表すものは山伏姿の天狗を表し、修験道が盛んになる室町時代頃から流行したとされます。本例は正に、これらに合致し、県内でも同様の作例は見いだせない極めて貴重なものです。武藤家と関わる修験道関連の資料としても極めて重要な資料です。

工芸品

鰐口(慈光寺)

町指定文化財 )
鰐口(慈光寺)
 元禄8年(1695)に再建された慈光寺釈迦堂(昭和60年焼失)の軒先に掛けられていたものです。銘文には「四十世学頭翁鎮」「見性法師」がみられ、江戸時代の慈光寺一山の復興に活躍した僧侶名が刻まれています。

鰐口(多武峯)

町指定文化財 鰐口(多武峯)

 かつて、外秩父修験の副先達を務めた、多武峯武藤家に伝えられたものです。観音山と呼ばれた多武峯には、かつて観音堂がありその軒先につるされていました。戦国時代の天文5年(1536)に制作されたもので「妙覚郷平之村塔峯山」「慈限坊」「福聚寺」など貴重な銘文が刻まれています。

考古資料

伝曽我兄弟供養塔

町指定文化財 伝曽我兄弟供養塔

大字玉川の龍福寺墓地最上段に所在します。
緑泥石片岩製の武蔵型板碑で高さは約1.8mあります。
近年の研究により左側の阿弥陀三尊を刻む板碑は
康永3年(1343)4月16日の年紀を持つことが判明し、
同年月日で同巧の板碑が嵐山町鎌形と大蔵に
1基ずつ所在することも明らかにされています。
地元では曽我兄弟にまつわる供養塔とされ、
『新編武蔵風土記稿』にも同様の記載があります。
近接しながら別地点に同巧同年月日の資料が3基所在し、
かつ民間伝承を有するなど県内でも貴重な武蔵型板碑として評価されます。

同資料拓本

▲ 同資料拓本

同資料模式図

▲ 同資料模式図

円通寺板碑群

町指定文化財 円通寺板碑群

 五明円通寺に伝わる板碑群です。一般に板碑は西暦1500年代になると、その造立が減少傾向となり西暦1600年を前後する江戸時代の始まりの頃には、ほぼ終息します。五明地区には、この終末期の減少傾向にある時期の板碑が多く所在し、特に円通寺には民間信仰板碑と呼ばれる「申待」「庚申待」銘を含む大型民間信仰板碑が4基集中します。これらの碑面には文字資料が残され、戦国時代の村の様子を伺う貴重な資料となっています。写真は、円通寺板碑群を代表する高さ2mの大型民間信仰板碑で、他の板碑は現在、教育委員会委員会へ寄託されています。

多武峯板碑群

町指定文化財 多武峯板碑群

 緑(りょく)泥(でい)石(せき)片岩(へんがん)(通称下里石)製の板碑群で断片も含め31基が所在します。多武峯周辺より集められたものと考えられますが、年代の判読できるものは、正和(しょうわ)6年(1317)~永(えい)禄(ろく)11年(1568)の約250年間にわたります。この時期は、多武峯で宗教活動が活発化する時期にも重なります。これらの中には、六(ろく)観音(かんのん)・六地蔵(ろくじぞう)図像(ずぞう)板碑など板碑研究に当たって何度も取り上げられている貴重な板碑が含まれています。
※ 修験道とは、修行により霊力を得ようとするもので、山岳信仰と仏教、神道等が混成した日本独自の宗教です。山伏姿や法螺貝などが一般的なイメージです。

六観音・六地蔵図像板碑

▲ 長禄五年(1461)六観音・六地蔵図像板碑

古文書

前田利家禁制

町指定文化財 前田利家禁制

 大字玉川の光明寺に対し、戦国武将で後に加賀百万石の太守となる礎を築いた前田利家が下した禁制です。豊臣秀吉の小田原北条攻めのおり、その臣前田利家は北国軍として群馬県碓氷峠越えで関東へ侵入し、北条方の支城を次々と攻略して行きました。この文書は、比企地方の拠点松山城攻めの前後に光明寺に下したもので、内容は治安の維持回復のために自軍の乱暴、放火などを禁じたものです。なお、この古文書では「妙覚郷 光明寺」と記され注目される資料です。戦国期の妙覚郷の範囲を想定する貴重な資料となる可能性があります。

慶長検地帳

町指定文化財 慶長検地帳

 慶長2年(1597)の日付をもつ旧日影村の検地帳です。戦国時代から江戸時代への移行期の日影村の状況を示す貴重な資料です。

上田長則寺中掟

▲ 町指定文化財 上田長則寺中掟

上田憲定寺中掟

▲ 町指定文化財 上田憲定寺中掟

 東光寺に伝わる古文書で戦国時代の松山城主上田長則と憲定から下されたものです。
戦国時代の比企地方は上田氏の勢力下にあり東光寺は日蓮宗に縁深い上田氏により開かれました。
長則の文書は天正9年(1581)、憲定の文書は天正15年(1587)に出されており、
いずれも寺を保護するための「法度」です。

切支丹制札

町指定文化財 切支丹制札

 戦国時代に伝来したキリスト教は当初織田信長等の保護により各地に広がりました。
江戸時代になって徳川幕府はその教えや外国の侵略を恐れ禁制としました。
特に、寛永14年(1682)の島原の乱後は厳しく切支丹訴人の制札が掲げられるようになりました。
根際の小沢家には天和2年(1682)ほか三枚の切支丹制札が残されています。

遠山衛門大夫藤原光影室葦園位牌

町指定文化財
遠山衛門大夫藤原光影室葦園位牌

 小倉城跡の麓にある大福寺に伝わるもので、城主遠山衛門大夫光景夫人の位牌と伝えられています。高さは86㎝、幅は13㎝、桐材で造られています。表には「華楽院殿妙香大禅定尼」、裏には「遠山衛門大夫藤原光景室華園」と記されています。

日影村絵図

町指定文化財 日影村絵図

江戸時代の日影村の見取り図です。
玉川陣屋代官中川八郎左衞門宛となっており、
寛文5年(1665)から天和2年(1682)にかけて制作されたものとみられます。
道や田畑など当時の村の様子を記した貴重な資料です。

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